朝日新聞(夕刊)

西発見 SAIHAKKEN

宮崎コチョウラン 満開の絆

「農家13戸、四半世紀で売り上げ80倍」

 宮崎市のコチョウラン農家の勢いが止まらない。後発の産地だが、13戸の農家が共に試行錯誤して質を高め、四半世紀で売り上げは80倍に。質の高さから単価は全国トップクラスとなり、他の有力産地からも一目置かれている。

[コチョウラン]

東南アジア原産のラン科の多年生植物で、チョウに似た花が一株に何輪も連なる。年中栽培され、「幸福が飛んでくる」という花言葉や、香りがなく場所を選ばないことから、開店祝いなどに贈られることが多い。3本立ちで1鉢あたり1万〜3万円。宮崎では、輸入した苗を高温室と低温室で15〜18ヶ月ほど育ててから寄せ植えをし、針金で向きをそろえて出荷する。

 

 

 

 

(後発 危機感で団結)
 4月下旬、宮崎市広原の田園地帯にある藤原伸太さん(42)の農場に13戸の農家が集まった。ハウスの中には一面に白やピンクのコチョウランがずらり。育ち具合を確かめながら、「肥料のこの濃度がいい」「この品種がいい」などアドバイスしあう。
13戸は宮崎市でコチョウランを生産するJA宮崎中央洋ラン部会のメンバー。月1回、各ハウスを回って情報を共有する。2014年の宮崎県のコチョウラン作付面積は全国5位。市外の農家は県内に1戸しかいない。
部会ができたのは1989年。ピーマンやメロンを作っていた農家19戸が、それまでの施設の老朽化やJAが苗を提供し始めたことを機にコチョウランへ転作して間もないころだった。近藤邦浩さん(70)は「福岡が大きな産地で、宮崎は相手にされなくて市場に安くたたかれた」と振り返る。
部会長の桑畑新一さん(46)によると、コチョウランは単価が1鉢2万円ほど差がつくため、多くの農家は栽培技術を隠したがるという。だが宮崎は後発の産地。採算が合わず辞める農家もいる中、「このままではつぶれてしまう」という危機感が団結力を生み、積極的に情報を共有した。他産地を視察し、新しい資材や苗、肥料を試した。

(植え込み材料 転機)
10年ほど前に植え込み材料を「プレサブ」という木のチップに変えたのが大きな転機となった。近藤さんは「根の張りが全然違う。人間でいうと胃袋が丈夫で元気になったから花の大きさや持ちがよくなった」。半年持つものもできたという。
日照時間が長いという地の利も後押しし、次第に安定して高品質なものを出荷できるようになった。JA宮崎中央果樹花卉課の押川浩二主幹(35)は「部会のコチョウラン農家は意欲が強くガツガツしている。みんなで試すからゴールに近づくのが早い」と話す。 10年から、年1回の品評会に出品するようになると、桑畑さんや中原勇二さん(66)が農林水産大臣賞を受けるなど、部会メンバーが毎年上位を占めた。今年1月も、17ある特別賞のうち9が宮崎勢だった。生産量全国2位の埼玉県の農家で、日本洋蘭生産協会の茂木敦彦会長(62)は「宮崎は勉強熱心でまとまりもすごい。今じゃ花の形、大きさ、輪数、花持ちともにトップクラス。脅威なので、市場が離れていてよかった」と話す。
89年に1500万だった部会の市場売上高は16年に約12億2千万に。出荷量は4千鉢から13万2千鉢に増えた。関西や九州、名古屋に毎週3千鉢ほどを出荷する。15年には「みやざきコチョウラン」として県のブランド認定を受けた。

(災害時も力合わせ)
自然災害もみんなで乗り越えた。岩切信一さん(66)は05年の台風14号でビニールハウスが2メートル浸水し、約3千平方メートルのコチョウランが全滅。被害額は数億円に及んだ。「これまで努力して育ててきたものが一晩でなくなって、1次産業の厳しさを知った」と振り返る。ショックのあまり、「こんな仕事継がんでもいい」と3人の息子に言った。 そんなときも、部会の仲間がハウスに来て一緒に片付けをし、苗を分けてくれた。借金をして少しずつ規模を増やしながら「我慢の生活」を続けた。
負債はあと4年でなくなる。岩切さんは「ここまで元に戻せたのは、部会のみんなで質を高めて、宮崎のコチョウランが市場で高く評価されるようになったから。来年は、東京にいる三男が後継ぎで帰ってくるんよ」と顔をほころばせる。ほとんどの農家で2代目が後を継ぎ、勢いは衰えない。桑畑さんは「宮崎のコチョウランのすごさをもっと多くの人に知ってもらいたい。そのための発信をどんどんしていきたい」と意気込んでいる 。

(河ア優子)

 

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